日本教育大学協会全国美術部門と大学美術教育学会のあゆみ
2017(平成29)年4月6日
大学美術教育学会 特別理事
増田金吾
1 日本教育大学協会全国美術部門
1949(昭和24)年5月、国立新制大学が設置された。同年11月、日本教育大学協会が結成され、「日本教育大学協会第二部美術部門」<現、日本教育大学協会全国美術部門(以下、部門と略称する)>が1950年4月に発足した。第一部は学長・学部長、第二部は学部・第三部は附属学校の教官(法人化後、「教員」となる)で構成された。ただ、実質的なスタートは、1952年11月、国立博物館講堂における第1回全国協議会[1]であり、その時の内容は次の通りである。
最初に、日本教育大学協会長・木下一雄(初代・東京学芸大学長)の挨拶があり、「およそ教員養成大学の使命は、一般大学の持つ基準の上に、更に教員養成大学としての基準を加えることにある。これら大学の向上のために此の協会の存在の意義がある。(中略)教育関係大学に於ける美術、音楽、体育等のあり方、特に各科教育の教授構成並にその教育内容についての検討・研究が望まれる。これはこの種の大学の重要課題であり又ここに教員養成大学教育の一番の難点があると考えるからである。アカデミックとは何の為のアカデミックであるかといえば教育者としての教養・信念のためのアカデミックでなければならない。我々の大学は教育を第一義とする。これからの日本教育の将来について、信念のある教育を以ってするよう大方の御努力を願うものである」と述べる。ここでは、教育者の教養・信念を目指すためのアカデミックが求められている。
次に、倉田三郎が全国協議会に関する経過報告をした。倉田は絵画の教科専門の教授であったが、当初から美術教育にきちんと目を向け、後にINSEA会長を務めるなど美術教育に大いに貢献した。続いて、山形寛・松田義之・勝見勝の「講演」が行われた。松田は、「図工教育に体系をつけること」の必要性を述べた。その後、「大学図工科設備充実の件」、「美術科諸問題の分担研究の件」、「教員養成大学美術科の在り方について」等13件の「協議」、「美術の評価試論」等4件の「研究発表」が行われた。部門における研究発表は、やがて大学美術教育学会の成立へとつながる。
戦後の教員養成大学・学部発足当初、美術科教官の多くは、大学での「教員養成」へ積極的に取り組み、また部門を通じて要望書等を文部大臣などに向け多数提出するなど、行政への働きかけを続けた。1952年には「美術関係の経費を実験講座として計上すること」(これは実現まで何度も提出された)、1959年には「中学校美術科時数その他に関すること」[2]などが出された。
また最近では、2005(平成17)年に、中央教育審議会長等への「『教育課程における美術教育の充実』に関する請願」の提出がなされた。2009年には「中学校美術科担当専任教諭の全校配置推進に関する要望書」が全国造形教育連盟や全国大学造形美術教育教員養成協議会と協同で提出され(その後も提出され続けている)、「美術教育の充実へ向けての要望書」が次期学習指導要領改訂へ向けて本部門や大学美術教育学会を含む8団体から文科大臣等へ2015・2016年と続けて提出されるなど、他の美術教育団体と足並みをそろえた活動となってきている。
ところで、教員養成大学の問題点の一つとして、教科専門に偏っているとの批判を受けた[3]ことがあることは看過できない。師範教育の反省を受けて、戦後、「開放制」に基づく教員養成が行われた。指導技術に偏らないなどの長所はあったが、真の教師養成の視点を忘れ、その力が制作あるいは美術理論へ向かった大学教員もいたのである。新課程(ゼロ免)が今から30年ほど前に、児童数減少等による教員就職率低下に伴い誕生したが、これを大学の一部の教員は、専門教育・研究の重視と捉え、教員養成課程もその影響を受けることとなった。そして今、行政、すなわち文部省(文部科学省)は自らが認めていたことではあったが、「第3期中期目標」期間中に文科省は新課程を全廃しようとしている。
ここで、教育を見据えた教科内容学が重要な意味を持ってくる。2008(平成20)年の高知大会拡大理事会で、教科内容学の検討が緊要であると提案され、これを契機に部門内にワーキンググループが組織された。その後「教科内容学検討委員会」となって議論が重ねられ、冊子体『うみだす教科の内容学』としてまとめられ、部門会員へはもちろん、大学美術教育学会の会員へも、学会と部門との関係性を記した文書と共に配布された。
一方で近年の部門や大学美術教育学会の組織・運営のあり方にも考えるべき点があった。教員の多忙化時代に、一部の大学、会員に頼りすぎることによる機能停滞化の状況、肥大化した形式的組織では、現状に対応しきれないということがあったのである。こうしたことに向けて、部門発足当初より続いてきた委員長(2010年度より「代表」という名称となる)が所属する大学に事務局を置くという体制を廃止し、2008年度の「総務局組織」に代表される新組織を誕生させた。これは当時の橋本光明部門委員長・大学美術教育学会理事長の英断によるものであった。そして、事務の外部委託化、その後のアウトソーシングによる事務分担化は必要なことであったのである。
2 大学美術教育学会
上記「部門」(日本教育大学協会全国美術部門)の記述において、「大学美術教育学会」に関わる部分を太字で記したが、このように両者が関連しあう部分は多分にあったのである。
「大学美術教育学会」は、1963(昭和38)年11月にスタートし、2010(平成22)年に日本学術会議協力学術研究団体として認定された学術研究団体である。当初、学会の事務所は、日本教育大学協会第二部美術部門本部に置かれた[4]。現在も、学会理事長と部門代表は同一人物が務め、事務も部門と同じ人たちにより総務局において行われている。
学会の参加資格は、当初、部門の会員並びに大学教官で会員の推薦により入会を申し込んだ者であったが、1965年には附属学校教官(当初は会員の推薦が必要だった)が加えられた。しかし、学会が成長すると共に、学会の本来あるべき姿を考え、1988(昭和63)年より学会が開放されて、美術や美術教育に関心のある多くの人に門戸を広げたのである。
学会大会では、研究発表はもとより2009年度よりポスター発表も行われている。また、学会のスタートと同時に『研究紀要』が出され、学会誌はその5年後の1968(昭和43)年度に第1号が発行された[5]。掲載論文数について見てみると、『大学美術教育学会誌 第1号』は5本であった。この後、第16号(1983年度)までの16年間は、多い時で14本、少ない時は3本、平均すれば8.3本であり、ばらつきがある。しかし、第17号(1984年度)以降になると、第18号は9本であるものの他はすべて10本以上で、第21号(1988年度)以降は、第24号を除き20本以上となり、安定してくる。
なお、学会誌委員会の審査については、1980年度(第13号)から行われている[6]。そして、査読の始まりは、「寄稿論文は、査読用としてコピー2部を同封するものとする」と規程で定められた学会誌第21号(1988年度)からと言えよう。1980年4月から施行された「研究論文の寄稿に関する規定(程)」は、1988年4月に「一部改正」されている。
研究内容としては、発足当初から、「美術教育及び美術に関する理論的研究を行う」ことが一番の特徴であるが、それが現在も持続されている。「美術教育」を考える上で、美術科教育にとどまらない教科専門分野からの視点は重要である。
なお、美術教育に関係する3学会(日本美術教育学会、美術科教育学会、本学会)からなる「造形芸術教育協議会」が2009年度より発足し、連携協力がなされていることも記しておきたい。
3 両者の関係性
以上述べたように、根っこの部分を部門に持ち、その後、機能分化した「日本教育大学協会全国美術部門」と「大学美術教育学会」は、当初全く同じ歩みをしていた。その後も、両者は併存の関係を続け、「学会分離」の動きもあったが、今日では部門・学会双方が果たすべき役割を考えつつ、両者が比較的望ましい関係で存在しているのではないか、
と考える。何故ならば、両者の関係が、一方は「教育現場」と「文部行政」、もう一方は「美術教育及び美術の研究」と「教育現場」を軸とするが、そのいずれも「教育現場」を介して接合しているので、「比較的望ましい関係」となっているから、である。
また、「日本教育大学協会全国研究部門代表者連絡協議会」等を通じ、部門、学会の両者を生かす機会が得られるなどの利点もある。
ただ、日本教育大学協会の下部組織である日本教育大学協会全国美術部門の会員は、教育組織全体での加入(機関加盟)を原則としているため、一定の縛りはある。しかし、かつてに比べればその加入条件は緩やかになってきている。
[1] 『日本教育大学協会第二部美術部門 第一回全国協議会報告』1952
[2] 中学校では図画工作科が美術科と技術科に分かれたために、美術科の週あたりの時間数が、学習指導要領1958(昭和33)年版ではそれまでの2・2・2から2・1・1に減少した。
[3]『大学美術教育学会 学会通信』2010年2月号の橋本光明理事長による「巻頭言」に、教員養成大学の問題点の一つとして教科専門に偏っているという批判があった、という趣旨の記述がある。
[4] 最初の「大学美術教育学会会則」が1963年に出され、同年11月22日より施行されている。この会則に本学会の事務所のことが記されている。大学美術教育学会史委員会編『日本教育大学協会第二部美術部門 大学美術教育学会 史料集』大学美術教育学会発行、19〜20頁、1983
[5]1968年度は最後の『研究紀要』である第17号も発行されている。「17」は、1952(昭和27)年度の『第1回 全国協議会報告書』発行から数えた通算での号数である。
[6]『大学美術教育学会誌』第13号、1981.3.31、巻頭の国領経郎理事長の「発刊に寄せて」において、学会誌の編集・刊行は、1980年度から(口頭)発表と寄稿論文について、学会誌委員会の審査・選定によって行われることになった、と記されている。